君が代は 千代に八千代に さざれ石の 
いわおとなりて こけのむすまで

 愛国心を育てる名言

スポンサーサイト

この広告は45日以上更新がないブログに表示されております。
新しい記事を書くことで広告を消すことができます。
台湾で神様になった日本人

今回は、ブログ「反日ワクチン」管理者小楠様よりコメントにて教えて頂きました「台湾で神様になった日本人」モリカワ・セイジロウ巡査の話です。
台湾南西部の嘉義県。富安宮という廟に「義愛公」と呼ばれ、戦前の日本の警察官の姿をした神像が祀られています。この警察官の名は森川清治郎。明治初めの実在の巡査です。

明治30年(1900年)、森川清治郎は、台湾南西部の台南州(今の嘉義県)の派出所に着任しました。

当時の台湾は、各地で盗匪が絶えず出没しては、民衆の生活を脅かしていました。加えて、環境衛生は劣悪を極め、マラリヤ、ペスト、コレラ等の伝染病が発生。それに対応できる医療機関も皆無に近い状態。教育程度も低く、台南においての男子の文盲は9割という有様でした。

そのような世情の下、森川清治郎巡査は半農半漁の寒村に着任しました。

森川巡査は本来の警察官としての任務に遂行するかたわら、派出所の隣に寺子屋を設け、自費で教師を雇い村民達には無料で読み書きを教えました。更に成績優秀者には、これも自費で賞品を用意するなど、教育の普及に努めました。

また自らも泥まみれになって農業技術改良の指導をする。貧しい者には物品を恵んで苦労を労わる。病人が出た際には、医者や薬の手配するなど、着任地の村の発展と人々安寧のために全身全霊を傾けました。

こんな話も残されています。ある日、怪我をして海中で泣いている漁師を見付けました。森川巡査は海に飛び込みその漁師を救助し、そこから2キロほど離れた家まで背負い介抱しました。その後、救助された漁師よりも森川巡査の方が大怪我をしていた事を村びとは知り、森川巡査の献身に感泣したそうです。

私心を捨てて、着任地の公に奉じ、村びとと苦楽をともにする森川巡査の生き様は、やがて全村びとの敬愛を集めるようになりました。

ある年、総督府は漁業税を制定しました。貧しい村びとたちは、税の軽減をお願いできないかと森川巡査に嘆願しました。納税は国民の義務だが、村びとたちの貧苦を誰よりも知っている森川巡査は、上層部に上申することを約束しました。

しかし、森川巡査が村びとを扇動していると曲解され、戒告処分を受けることになります。

村に戻った森川巡査は、村びとたちに、悲痛な面持ちで語りました。「税金の事に就いては、自分のカではもうどうすることも出来ない。・・・皆も苦しいだろうが、右の様な事情だから国の為と思って快く税金を納めてくれ、私からもお願いする」。

湧き上がる涙を村びとには見せまいと背を向け、森川巡査は宿舎に戻りました。

村びとと苦楽を共にし、村びとの安寧に全身全霊で尽くした森川巡査の失望の深さはどれほどのものだったでしょうか。明くる朝、森川巡査は拳銃で自決しました。享年42歳。「疑われては弁解の術もない、覚悟する」と書き留められた名刺が一枚、ポケットに残されていました。

森川巡査を父のごとく慕い、敬愛していたた村びとたちは、変わり果てた姿の巡査にしがみつき号泣しました。森川巡査は、村びとたちの手によって、村の共同墓地に埋葬されました。

そして、約20年の歳月が経過します。

この地域で伝染病が大流行した大正12年のある日のこと、制服姿の警察官が夢枕に立ち、「生水や生ものに注意せよ」と告げると去って行きました。村長は早速そのお告げを村びとに守らせると、村の伝染病はおさまったということです。

村びとたちは、自分たちの親や祖父母に心から尽くしてくれた森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていることを心から感謝しました。そして巡査の制服姿の神像を作り、富安宮という廟に「義愛公」と呼んでお祀りしました。

この「日本人の神様」は、今日もなお「観音様、媽祖様、義愛公様」と親しまれ、地元の人々の信仰を集め、線香の絶えることがありません。


  
スポンサーサイト

CATEGORIES
愛国心を育てる最新刊
愛国心を育てる最新刊
SPONSORED LINKS