君が代は 千代に八千代に さざれ石の 
いわおとなりて こけのむすまで

 愛国心を育てる名言

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

台湾に尽くした日本人 -八田與一

洪水と干ばつを繰り返す嘉南平野を、豊かな穀倉地帯へと変貌させた嘉南大圳の完成に、地元の人々は感謝し、八田與一の銅像を烏山頭ダムのほとりに建立しました。

台湾に尽くした日本人 -八田與一△鯑匹 >>
しかし、烏山頭ダムが完成して五年後の昭和17年、八田與一は輸送船でフィリピンの綿作灌漑調査に向かう途中、乗船する船が米国潜水艦に攻撃され殉職。

そして終戦。日本人が本国への引き揚げをはじめていた頃。日本の降伏文書調印の昭和20年9月1日未明、八田夫人・外代樹は夫が精魂込めて造り上げたダムの放水路に身を投じました。

机の上には「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が残されていました。

八田夫妻のお嬢様の話です。

「父が亡くなったのは5月8日とされておりますが、大洋丸は確かに5月8日に沈没したのですが、遺体のあがったのは6月の10日でしたか、島根沖で漁船に拾われたんです。

母に日本に帰る積もりのないことは、子供たちみんな、分かっていました。朝起きたら母がいなく、これはダムだなとすぐ思いました。遺書らしきものを見た途端、放水口だと思いました。みんなが堰をを止めて下さって、下流で遺体があがったのです」

ところで、八田與一の銅像には、いかに地元の人々に愛されていたかを物語るこんなエピソードが残されています。

戦争末期、金属の供出が求められていた頃。八田の銅像もダムのほとりから姿を消し、誰もが時局の運命と諦めていました。

しかし、昭和56年、溶かされて兵器になっていた筈の銅像が突如姿を表したのです。

戦争末期、銅像が失われることを忍びなく思った地元の人々が近くの駅の倉庫に隠しました。

戦後、国民党政府が日本統治時代の痕跡を抹殺することに躍起になっていた時代にも、地元の人々が隠し続けてきました。

それが蒋経国の時代となって、ようやく表に出されたのでした。

蔡焜燦氏は語ります。

もし、日本の台湾統治がなかったら、こんな立派なダムもなく、おそらく台湾は中国の海南島のような貧しい島になっていたであろうということだ。…
戦後日本では、かつての植民地統治を無条件に批判する言論が幅を利かせていると聞く。が、日本による台湾統治によって、いかに多くの台湾人が恩恵を受けたかという側面を考慮しないことはあまりにもお粗末であり、聞くに堪えない。それは単なる特定イデオロギーに染まった、“こじつけ”でしかなく、少なくとも日本の統治を受けた台湾人には理解し難い…。

日本統治時代を知る台湾の多くの人々が、日本人が自国の歴史を正当に評価し、自身と誇りを持って日本人らしく生きてゆくことを期待しておられます。

そんな、本物の日本人の姿を、我々はそろそろ取り戻さなければなりません。


  
スポンサーサイト

CATEGORIES
愛国心を育てる最新刊
愛国心を育てる最新刊
SPONSORED LINKS